~身近にあった鍛冶屋さん~
口和町宮内
谷口俊篤さん、谷口ヤスコさん
#口和が好き 2023年2月20日
そのむかし、宮内市場は雲伯路(うんぱくじ)の宿場町として栄えました。商家100軒が軒を連ねたと言われ、旅館、各種商店、銀行、郵便局から芝居小屋、家畜市場、法務局もありました。そのなかには鉄製品を作る鍛冶屋さんもありました。今回は宮内市場では最後まで鍛冶屋をされていた、谷口俊篤さん、ヤスコさんのお宅を訪ねました。
谷口さんは、鍛冶屋に欠かせない松炭が手に入りにくくなったため、2013年に鍛冶場をお部屋にリフォームして完全に鍛冶を辞められましたが、谷口さんがご存知なだけで宮内市場に3軒、口和町全体で8軒の鍛冶屋さんがあったそうです。
谷口さんのお宅はお父さんの代からの鍛冶屋で、谷口さんご自身は向槌(むこうづち=助手)から始まって、32歳で横座(よこざ=親方)を継ぎ、ヤスコさんにもお手伝いしてもらいながら、鎌や鍬などをはじめとした農業林業の道具、包丁などの生活道具、大工さんの道具など身近な製品を手作りしてこられました。
一日二日で出来るものはひとつもなく、熱いなかでの重労働と経験により培われた感性によって仕上げられた品々は、規格化された工業製品にはない存在感、生命感があり、工芸品というべきものばかりです。
なかでも一段と美しいのが牛のツメを切る削蹄鎌(さくていがま)です。これは、谷口さん親子が独自に改良を重ねられたもので、当時の仲買人さんなどによって広く全国に伝わっていったそうです。鍛冶屋を辞められたあとでしたが、遠く長崎県の五島列島からこの削蹄鎌の問合せがあったときは、とても嬉しかったそうです。
長く使われ、もう一度欲しいと思われる。これぞ本物。職人冥利に尽きるとはまさにこのことでしょう。今年のとんど作りでも、谷口さんが作られた鎌が抜群の切れ味で活躍していたそうです。工業製品が出回る前の鉄製品は、その多くをまちの鍛冶屋さんが担っていました。規格化されていないので、オーダーメイドも当たり前。気軽に買い替えるものではなく、長く大切に補修しながら使われてきました。
それが、工業化によって単一の商品が大量生産されるようになり、鍛冶屋さんが1軒また1軒と減っていき、地方の人口は工業を支えるため都市部に流出していきました。
その流れを巻き戻すことはできません。しかし、つくる人の感性によって仕上げられた「製品」は「作品」でもあり、その価値はどんな時代や場所でも変わらない。もしかしたら、職人さんの製品、作品など、その人の感性が込められたものは普遍的な価値を持つのかもしれません。直に触れる谷口さんの道具から伝わる重厚な存在感が、そのことを教えてくれるのでした。
口和自治振興区
地域マネージャー
松本 晋太